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白井晟一の自邸

  • sumaiinterior
  • 2014年5月24日
  • 読了時間: 2分

白井晟一の自邸

彼は、京都の銅板職人(後に呉服行商に転じた)の家に生まれ、12歳で父と死別し、姉が嫁いだ”画家近藤浩一路”のもとに身を寄せる。東京に住み、青山学院中等部に入学するが、1923年の関東大震災で義兄の家が全焼したために、静岡へ、そして京都へと転居する。1924年に京都高等工芸学校図案科(現在の京都工芸繊維大学造形科学科)に入学し、1928年に卒業した。学生時代に”哲学者戸坂潤”に兄事し、さらに”美学者深田康賛”に私淑した。そして、シベリヤ経由で渡欧し、ベルリン大学哲学科に入学した。

1933年に帰国し、義兄邸をはじめ建築設計を手がけたが、第二次世界大戦が勃発して秋田に疎開した。その秋田でも、多くの作品を残した。

戦後は、モダニズム建築全盛の風潮に背を向け、哲学的と称される独自の建築を生みだした。

今回、取り上げる彼の自邸は、自邸としてはニ軒目なりますが、哲学的と思わせる「虚白庵」と名付けた住まいです。

自邸は、1970年に完成した。彼の晩年の円熟した時期の作品である。自宅の外観を知りたくても、画像上左のように高い塀に囲まれて全貌を覗うことは出来ないのである。その右の画像は、隣から撮影したと思われる屋根と中庭が見える彼の自邸です。

そして、左中央の写真は、その中庭を居間から覗いた景観ですが、京都の庭を彷彿させるよう構成である。その中庭から、自邸を覗いた時の居間の写真は、照明の取り扱いかたが、モダン建築の求める明るい空間とは異にする、どちらと言えば日本的空間を感じさせる。内部空間(右下の写真)は、大方の部屋が最小限の家具と照明で照らされおり、なんとなく哲学的な雰囲気を醸し出す空間であり、谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」のような世界である。

今回、彼の自邸を紹介するにあったって、今までのモダンさや、現代風なところのない、ましてや外観へのこだわりも見え無い、哲学的な表現の住まいを取り上げるかべきか惑った。しかし、このような自邸もあることで紹介しました。

彼の作品は、モダン建築家たちが間仕切りからの解放とか、開かれた空間とかを追求したのに反して、仕切られた空間の中にだけ住まいの存在があるとする空間を追求したようである。そして、西欧的、古典的な他の作品から開口部の取り方が、ローマ建築のアーチを模したようでもあり、日本の茶室や床の間のアーチでもあり、すこぶる古典的なところがあるが、それによって明かりが際立ち、逆に閉鎖性を和らげているのだろうか。

今回は、[Wikipedia」と「SD 特集白井晟一」を参考に、自分なりに紹介しました。

今回は、ここまで!

 
 
 

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